東京高等裁判所 昭和55年(う)1764号 判決 1981年2月18日
被告人 穴吹薫
主文
本件控訴を棄却する。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人前島正好作成名義の控訴趣意書(一枚目裏一行目の「理由にくいちがいがあり、また」の部分は削除されたので、これを除く。)及び控訴趣意補充書に、右に対する答弁は、検察官藤岡晋作成名義の答弁書にそれぞれ記載されているとおりであるから、これらを引用するが、弁護人の所論は、要するに、原判決は、被告人がその運転するフオークリフトの前部に積載していた鉄製バケツトの右角部分を鶴岡友子の右上腕部に衝突させる暴行を加え、同女に加療約三週間を要する同部位打撲挫傷の傷害を負わせた旨認定したが、右認定にそう鶴岡友子及びその夫鶴岡照三の各供述は、同人らが従前から被告人と対立抗争状態にあつたこと、同女の傷害の部位が右手であるというのが不自然であること、同女の警察への届け出が遅れてなされていること等の情況並びに被告人はバケツトを同女に当てておらず、もとよりそのような意思もなかつたとする被告人の供述及びこれにそう柴田義美の原審公判廷における供述に照らして信用できず、他に右事実を認めるに足りる証拠がないにもかかわらず、右鶴岡友子及び鶴岡照三の各供述等によつて前記認定をした原判決は事実を誤認したものである、というのである。
そこで、訴訟記録を調査し検討してみるのに、原判決の挙示する関係証拠によれば、被告人は、昭和四八年ころから本件土地及びその西側にある長屋の南半分を多田竹雄から賃借し、同土地を自己の経営する古紙回収業の作業現場とするとともに、同建物を従業員宿舎などにあてていたところ、昭和五四年四月ごろ以降多田から右土地及び建物の明渡しを求められるようになつたが、これに応じないでいるうち、同人や右長屋の北半分に居住する同人の娘鶴岡友子及びその夫鶴岡照三らから、前記被告人借用建物の玄関先に荷物を運びこまれ、あるいは本件土地上に建築材料を置かれるなどのいやがらせをされるようになり、このようなことが原因となつて被告人と鶴岡夫婦とはしばしばいがみ合い、ののしり合うような対立抗争状態となつていたこと、本件当日である同年一〇月一〇日の午前一〇時ころ被告人が右作業現場に来てみると、鶴岡方の乗用自動車が普段よりも作業現場に寄せて止めてあり、作業に差しつかえたので、鶴岡夫婦に同車の移動を求めたが、拒否されたため、その腹いせもあつて、同車の移動ができなくなるのもかまわず、同車の周囲に鉄製バケツトを置いて作業を進めたこと及び同日午後三時ころ被告人がフオークリフトを運転して作業をしていたさい、鶴岡友子から、右自動車を使用するので周囲のバケツトを移動して欲しい旨申し入れを受けたが、鶴岡が妨害駐車をしたことに対する仕返しの気持から、同女の申し入れを無視して自己の作業を進めようとしたところ、同女が右申し入れを繰り返して被告人の運転するフオークリフトの前に立ちはだかつたため、同女に対し「そんな所にいると轢いてやるぞ。」と怒鳴りながら、鉄製バケツトを前面に積載したフオークフリトを同女に向かつて前進走行させ、あとずさりする同女の直前で左に急転把したことがそれぞれ認められる。そして、(証拠略)を総合すると、前記のように被告人がフオークリフトを左に旋回させたさい、フオークリフトに積載していた鉄製バケツトの右角があとずさりしながら衝突されるのを回避しようとした鶴岡友子の右上腕部に当たり、同女が右上腕部打撲挫傷の傷害を負つたことが認められる。所論は、右鶴岡夫婦の供述を疑うべき状況として、同夫婦が被告人と対立抗争状態にあつたこと、被告人がフオークリフトを左旋回させた時、鶴岡友子はこれと向かい合う形で立つていたのであるから、フオークリフトの前部に積載したバケツトが当たるとすれば、同女の身体の左側であるべきであつて、同女が右上腕に打撲傷を負つたというのは不自然であること、また、その時同女がその場に転倒したような事実はなかつたこと、鶴岡夫婦の通報により間もなく警察官が本件現場に臨場したが、同女らが警察官に主に訴えたのはとじ込められた車の件についてであつて、バケツトを当てられたというような訴えをした形跡がないこと、同女が被告人にバケツトを当てられ負傷した旨警察に被害届を提出したのは本件後二週間も経過したのちのことであり不審であること等の諸点を指摘する。しかしながら、鶴岡夫婦が被告人と対立抗争状態にあつたからといつて、その一事から直ちに同夫婦の供述をすべて疑うべきものとすることはできず、また、同女の傷害の部位とバケツトの旋回方向とが一致しないとの点については、あとずさりしていた同女がとつさに身を左によじつて迫つてくるバケツトを避けようとしたのだとすれば、同女の右腕に左旋回するバケツトが当たつたとしても何ら不自然ではなく、現に同女は原審公判廷においてその旨の供述をしているのであつて、この点もさして同女らの供述を疑うべき事由とはなしえないのである。また、記録によれば、同女がその場に転倒した事実がないことは所論指摘のとおりであり、同女らがその後間もなく現場に臨場した警察官に対し本件被害の事実をさほど強くは訴えず、警察官が本件を直ちに暴行傷害事件として立件した形跡がないことも事実のようであるが、これらの点は、同女に当たつたバケツトの打撃がさほど強力なものではなく、同女も当初は本件被害の程度を重く考えていなかつたことを示すものではあつても、本件暴行と受傷の事実までも否定すべき根拠となるものとは到底考えられない。また、記録によれば、鶴岡友子が本件被害を改めて警察に届け出た日は、本件後二週間が経過した同月二四日であることが認められるが、一方、(証拠略)によれば、同女は本件事件の翌日には被害部位について医師の診察治療を受けていることが明らかであり、しかも、鶴岡夫婦の原審公判廷における各供述によれば、このように被害の届け出が遅れたのは、同夫婦がその届けを出すべきものかどうか迷つたことによるものと認められるのであるから、右の点も前掲鶴岡夫婦の原審公判廷における供述を疑うべき事由になるとは考えられない。更に、所論は、以上のような各情況に加えて、バケツトを鶴岡友子に当てる意思はなかつたし、当ててもいないとする被告人の捜査段階及び原審公判廷における供述並びにバケツトが同女に当たつたのは見ていないし、そのような様子もなかつたとする証人柴田義美の原審公判廷における供述に徴し、前記鶴岡夫婦の供述は信用できず、したがつて、また、同女のバケツトによる受傷の事実も疑わしいとも主張するけれども、被告人の供述経過をみると、被告人は本件で身柄を拘束された当初の七日間は、本件での取調に対し、自分は当日現場には居なかつた旨言い張り、その後供述を改め、鶴岡友子の方に向かつてフオークリフトを進めた事実はあるが、バケツトを同女に当てる意思はなく、現に当てていないと思う旨供述するに至り、原審公判廷においても同様の供述をしたことが認められるのであつて、このように被告人の供述には不自然な変更があつたこと並びに関係証拠によれば、本件鉄製バケツトを前面に積載したフオークリフトの運転席からの前方の見通し状況は全く完全なものとまではいえないこと、バケツトが同女に当たつたのは、被告人が同女に向かつてフオークリフトを進めたのち、同女の直前で左に急旋回した際の出来事であること等の諸点に加えて、前掲鶴岡夫婦の供述等をも加えて吟味すると、バケツトは同女に当たつていないとする被告人の供述は信用することができないものというべきである。また、柴田義美は被告人方出入りの古紙回収業者であつて、柴田の原審公判廷における供述を同人の捜査段階における供述と対比してみると、同人の原審公判廷における供述は捜査段階におけるものよりもかなり被告人の供述内容に近づいたものになつているきらいがあるうえに、柴田の供述するところによれば、同人が被告人と鶴岡夫婦との口論を見聞したのは本件のさいが初めてのことではなく、柴田は本件のいさかいの一部始終を注意深く観察していたわけではないことが認められる点等に徴すれば、同人の原審公判廷における供述も、前記鶴岡夫婦の供述の信用性を損うものではないとみるべきである。次に、被告人の暴行の犯意の点について検討してみるのに、前記のように被告人はかねてから鶴岡夫婦とは険悪な関係にあり、本件当日も鶴岡にいやがらせの駐車をされたうえに、鶴岡友子から自分の運転するフオークリフトの前に立ちはだかられて車の周囲のバケツトを取り除くよう強硬に要求され、激昂していたこと、被告人は同女に対し、同女を自分の運転するフオークリフトで轢過するかのような気勢を示しながら接近していること、被告人が同女の直前でフオークリフトを左旋回させたさい、その前部に積載したバケツトの右角が同女に当たつていること等に徴すれば、被告人が弁解するように、被告人が同女の直前でフオークリフトを左旋回させた行為が同女との衝突を回避するための操作であつたのだとしてもなお、被告人はフオークリフトの前部に積載した鉄製バケツトを同女をかすめるように当てる程度のことは少なくとも未必的には認識していたのではないかとの疑いは極めて濃厚であるけれども、被告人が捜査段階から一貫して右鉄製バケツトないしフオークリフトを同女に当てる意思はなかつた旨及び同女の直前でした左旋回はもつぱら同女との衝突を回避するための操作であつた旨供述していること、前記のように、被告人がフオークリフトを左旋回させたさい、その前部に積載したバケツトが同女の右腕に当たつたのは、被告人の右操作に、バケツトないしフオークフリトとの衝突を回避しようとした同女の動きが重なつたからであつて、同女のこの動きがなければ、バケツトが同女に当たらなかつた可能性も否定できないこと等に徴すれば、被告人が直接バケツトないしフオークリフトを同女に衝突させる意思を有していたとの事実はこれを認めるに足りないものというべきである。しかしながら、被告人が右フオークリフトを同女に向かつて走行させ、これを同女に衝突させるかのような気勢を示しながらその身体に右フオークリフトを近接させた行為は、同女の身体に対する不法な有形力の行使として刑法二〇八条の暴行に該当するものというべきであるとともに、被告人がこの行為を意欲しかつ認容していた点において、暴行の犯意の存在にも欠けるところはなかつたものといわなければならない。そして、同女は真近に迫つてきた右バケツト及びフオークリフトを避けようとして同バケツトの右角に当たり受傷したものであるから、右傷害の結果は被告人の前記暴行によつて生じたものというべきである。
以上によれば、被告人が原判示のような行為をし、そのさい鶴岡友子が負傷したことが認められ、かつ、被告人の右所為が同女に対する暴行行為に該当し、これによつて同女が負傷したものと解することができるのであるから、原判示傷害の罪となるべき事実の証明は十分なものというべきであつて、原判決には所論のような事実の誤認はなく、論旨は理由がないから、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却することとして、主文のとおり判決する。
(裁判官 西川潔 杉山英已 浜井一夫)